メギド72の討伐が面白い。本編も結構考えないと勝てないゲームバランスだが、討伐の方はパズルボスと化していて、しっかりと対策を立てる必要がある。
この試行錯誤する感触は、世界樹のクリア後ボスだとか、MHで特定のモンスターに対してスキルを組む時のそれに近い。
もしかしたら自分がゲームに求めているものはこれだったのかと考えたが、本当にパズルボスが好きかと言えば、案外そうでないかもと気づいた。


ゲームで最も重要な要素は何だろうか。
キャラメイクの有無に執着したこともあれば、演出が全てと言いきったこともある。

しかし今なら、全体的な完成度の高さ、総合力だと答える。
好みに合ったシナリオや世界観やキャラクター、分かりやすく深みのあるシステム、印象に残るグラフィックやサウンド、ゲームならではの演出、理不尽でない難易度、快適なUIなどなど。
色々な要素が絡み合って、自分の琴線に触れたゲームに、愛着が湧く。真摯に向き合い、時間をかけてやりこみ始める。

MHなどは最たるもので、楽しいけれど何に惹かれているのか分からないゲームだった。
しかし考えてみれば、膨大な武器防具にグラフィックが用意されているとか、一貫した世界観やテキストのレベルの高さだとか、弱点に攻撃を当てた時のずしりとしたヒットストップとか、さらには水辺に足を踏み入れた時の足音の変化とか。
細やかな部分まで丁寧に作られたゲームであり、それが愛着を生む。

逆にインディーズゲームは、評判のものをいくつか買ったが、ほとんど投げ出してしまった。光る部分があっても粗削りなところが気になったか、そもそも海外向けのデザインが合わないのか。ともかく僕が求めるものはそこにはなかったのだろう。
リメイクや完全版も最後まで遊ばないことが多い。一度目の時に熱中していても駄目なので、新鮮味は自分の中で大事な要素らしい。

愛着が湧かないと、主体的に遊ぶモチベーションが上がらないので、上辺だけなぞってクリアということになる。こういう遊び方は、もう良いかなと思えてきた。
忙しさや心の余裕といった自分の状況も関係してくるが、どうせ遊ぶなら本腰入れて熱中したいので、愛着の湧くゲームと出会いたいもの。

ブラックボックスと化したDynalistの整理に追われている。
現在この大部分を占めるのは創作メモなのだが、それこそ十年以上の期間に渡る思いつきや下書きを詰め込んでいるので、横の広さも縦の深さも相当なことになっている。

この規模になると、どこに何があるかが分からなくなる。
そもそもアウトラインエディタは本棚ではなく作業机なので、散らかりやすい環境なのは間違いないが、それでも作業ができなくなるぐらいに散らかるのは困る。

整理する上で一定のルールは作っているはずだが、あまりに複雑であればルール自体を失念してしまう。
自分で考えたルールなのだからという話ではあるが、ルールを決める自分も固定された存在ではなく、時期によって考え方も変わっていく。
じゃあ書き留めておこうとメモしたルールが、いくつか重複してあちこちに散らばっているとなると、もう救いようがない。

こうなると、やはりアウトラインエディタを整理しようという考えは捨てた方が良いのかもしれない。
ただあまりに散らかってしまうと、自分の理解から離れすぎてしまい、開くこと自体が億劫になってしまう。

これを避けるためには、常日頃から目を通す習慣をつけるのが一番か。
全体の隅々まで目を通さなくとも、毎日作業机の前に座るようにすれば、ここまで混沌とすることはないはず。
多くの創作資産を置くツールだからこそ、自分の手足のように扱える状態にしておきたい。

十代の頃の夢を見た。
放課後の帰り際に友達とはしゃいでいる、自分でもすっかり忘れていたような空気感まで、忠実に再現した夢だった。
時が経つにつれて意識には上がらなくなってしまったが、記憶の奥底には今も残っているということだろう。

過去は戻らず、思い出は思い出のまま。
しかしその延長線上、地続きの今、たしかに自分は生きている。

華麗に、かっこよくは生きられないにしても。
真摯に、そして軽やかに生きていこうと。
あの頃と同じ空を見上げて、そう思った。

寝転がってスマホからEvernoteを開き、2010年代前半の古いノートを眺める。
スワップがタップに化けて編集モードに切り替わり、あたふた……。

という経験が何度かある。ここで少しでもノートに変化を加え、それが保存されてしまった場合、更新日時に刻まれることになる。
Evernoteは保管庫であり、後から何度も修正するということはあまりないので、編集にロックをかけるような機能があっても良いとは思うのだが。

昨日からまたScrapboxを触り始めていて、創作の設定集として活用している。
いっそ書き上げた小説もこれで公開するのはどうかと検討したが、結局は保留することにした。理由は上と同じ。

つまるところ、固定しきれない感じがするのだ。

完成した文章を載せたとして、タップ一つ、クリック一つで編集できてしまう。
それは何というか、完成品としては脆くて、ちょっと不安に思うのだ。

ブログの記事を編集するには、まず編集画面に飛んでそこから修正する必要がある。
ツイートは後から編集することはできないので、一度消して新たにツイートをし直す必要がある。
そういう「一手間」を挟まないと書き換えられないものは、不便さと引き換えに強固さを得る。

たかが一手間、されど一手間。
その代表格が、デジタルではない手書きのログなのかもしれない。

趣味は自分一人のものであり、他人と共有したくないという感情がある。

同じものを好きなら同好の士となりそうなものだが、自分の場合はそこに危機感や恐怖心を持ってしまう。
人との共有はリスクが大きい。たとえばその同好の士が自分よりも「優れて」いた時に、最悪その趣味に対する想いにも影響してくる。
ファン同士のコミュニティだとか作って、皆で盛り上がる方が健全な多数派だとは思うが、その楽しみ方が自分にはできない。こればかりは性格の問題。

第一の趣味が被っていない場合、自分があまりこだわりを持たない程度に好きなフィールドにおいては、共有しても自然体でいられる。
自分は第一の趣味に対する執着心・独占欲が強めに出る人なのかもしれない。
アイドルのファンがいうところの「同担拒否」という言葉が的確な表現か。

あとは何かと影響されやすい自覚があるので、自分のフィールドに近いものには迂闊に手を出さないようにしている。
小説でいえば、世界樹やMHの二次創作は読まない。これも自分が書かない分野だとか、創作という趣味自体の共有は平気なんだが。

たまに読んだら普通に楽しめることも多いし、視野を広げるためと割り切って濫読する方が賢いとは思う。
しかしこの心情的なハードルというものは、なかなかに飛び越えるのが難しい。