今月もあっという間だったと言いたいところだが、何だかんだで9月は長かったように感じる。中旬までは早かったけれど。
例年よりも残暑を感じなくて、素直に秋の涼しさを感じる日が多かった。

記事の振り返り。1日の記事を書いたのは随分昔に感じる。今週はスープ作りをサボっていたので、読み直してぎくりとした。
5日と13日の記事は、どちらも昔を懐かしむもの。世界樹シリーズは一度振り返ってみたいと思っていたので、書けて良かった。
20日の記事は創作について、今月は世界樹の創作にエネルギーを使っていたが、途中で煮詰まっていた時に書いた記事。とんでもなくコスパの悪い趣味であることは間違いないので、楽しいと思える範囲で続けていきたい。
25日はEvernoteについて。乗り換え先がないことは以前から不安ではあったが。chromeでノートが表示されないバグは相変わらず。
27日の記事は、構想自体は以前からあったが、もう少し冷静な時に書くべきだった。感情に任せて書くのもログとしてはありだが、外に出す必要はない。

ゲーム事情。8月下旬から遊んでいた幻影異聞録をクリアした。Switch版MHXXとセカダン2を放り投げて買ったのは正解だったと思う。明るい作風に楽しいシステム、全体的に真摯な作りに大満足した。ようやくエンディングの余韻も抜けてきたところ。
続いて、序盤でうろうろしているVCポケモン銀も進めたいところだが、結局セカダン2を買ってしまった。テキストなど色々と言われているが、第4迷宮時点では楽しさが勝っている。
先日28日に発売したFE無双も気になっているし、10月にはマリオオデッセイも来るし、なかなか忙しい。

手が回らなくなってきているのは、創作に時間を割いているからかもしれない。世界樹2の自ギルド小説を書き始めており、暇を見ては構想を練ったり資料を漁ったり。
2009年に世界樹2を遊んだ時から、いつか長編を形にしたいと思っていたので、念願叶ったといえる。まだ1話しか書けていないけど。
長編を今まで一度も完結させたことがないから、これは頑張りたい。

嫌いなものの話をしても無益だが、たまには。

昔から同年代・同世代の人間が苦手だ。近くに同世代の人間が存在すると、危機感と警戒心が強まる。
よく同世代間はコミュニケーションが取りやすいという。たしかにジェネレーションギャップを考えれば、同年代の人間の方が共通の話題を持てるような気はするが、そもそも守備範囲が狭いので恩恵を感じたことがない。
実際は大目に見てくれる年上か、こちらが配慮するしかない年下の方が、相手をする上で気が楽だ。

最近、同世代を嫌う理由に思い当たった。
「比較対象になるから」である。

同世代の彼ないし彼女を通して、自分という人間が相対化され、弱みを感じる。
何をもって優劣を決めているのかは定かではないが、基本的に自分が苦手とする分野で比べ、打ちひしがれることが多いように思う。
自分が優れている点よりも劣っている点に注目してしまうのは何故なのか。

自分は幸せ者だと自負しているが、それは確信するほどではない。
比較対象がいると、その自己暗示にヒビが入りやすい。
自己肯定感だけでストレスを防いでいる身にとっては、天敵に等しい。


完全に比較対象を失うと、独自路線を走って戻れなくなるかもしれない。
何事も中庸が大切。適度に立ち位置を見直すことは必要ではある……。

が、それはそれとして同世代は嫌いだ。
理屈が分かったところで、改善されるわけでもするつもりもないのだから、やはりこの話は無益だった。

Evernoteはweb版の旧デザインを使っている。
先週の水曜(20日)から、中央のノート一覧が表示されない事態に。

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ノートブックを移動しても、全てのノート表示にしても変化はない。これではノートにアクセスできず、全く使い物にならない。
新デザインに切り替えると表示されるものの、このデザインだとノートブック一覧を固定できず使いにくい。
仕方なくこの数日間はWindows版を使っていたが、これも慣れない。web版に比べて動作が重く、いちいちストレスが溜まってしまう。

何とか元の状態で使えないかと調べていると、Chromeで表示にバグが起こるというツイートを見かけた。
試しにFirefoxで開くと、きちんと表示される。やはりChromeとの相性によるものらしい。


Evernoteは第二の脳であり、自己の根幹を成す場所でもある。
現状を百年維持してくれるなら、百年使うつもりではあるが、恐らくそうはいかない。
何の前触れもなく上記のようなトラブルが起こるし、不利な仕様変更もありうる。
自分の場合は旧デザインが使えなくなるだけで、致命傷を受けてしまうわけだし。

単に保管庫として使いたい身からすれば、Evernote社がワークスペースを目指す方針を持っていることも心配。
正直なところ、先行きにかなりの不安を覚えている。

一番困っているのは、Evernoteの代替サービスが見当たらないこと。
Workflowyに対するDynalistのように、Evernoteに対する何かが出てきてくれれば、いざという時に乗り換えられる師、Evernoteの改善も見込める。
とはいえ、今は他に扱いやすい保管庫が見当たらないので、黙って耐えるしかない。

いっそ画像やwebクリップを投げ捨てて、テキストデータだけを扱うようにすれば、選択肢は増えそうではあるが……。

最近また小説を書きたい気分で、マイキャラの話をぼちぼち書いている。
自分が作ったキャラクターなので、自分が書かなければ供給がない。

設定やシナリオや一場面を考えるのは好きなので、ネタ帳(WorkFlowy)には大量の蓄えがある。
しかしこれを小説という形に仕上げるのが苦手で、とんでもなく時間がかかる。


時間があれば書けるかというと、自分には当てはまらない。
ありあまる時間があっても書けない(書かない)ことは分かっている。

文章を書く行為は単純作業ではなく、頭を使わなければならない。
脈絡のない日記や記録よりも、生産エネルギーを大量に使う。
特に最近はこれが顕著で、何とか書き上げた後には疲れ果ててしまい、しばらく創作に触れたくないと思うこともある。
あくまでも趣味なのだから、満足感よりも徒労感が上回っているのは具合が悪い。

小説を書くのは、とてもコスパの悪い趣味。
時間と労力を大量消費して、一つの形を作る行為。

しかし同じ結果なら過程はできるだけ楽にしたいのが本音。
他の趣味を削って時間と労力を捻出しても、根本的な解決にはならない。
どうにかしてコストを落としたいが、創作とはそういうものだと言えばそれまでで。

高校時代にブログを書いていた。
内容は日常の出来事、自分なりの考え、趣味の話、愚痴、詩、エトセトラ。
受験期までは毎日更新していた覚えがあるし、一日に数回更新する日もあった。

よくそれだけの手間をかけたし、それだけの時間があったものだと感心する。
当時、ブログ更新を苦しく思った記憶は、あまりない。これは「高校生活がそんなに楽しくなかったから」という身も蓋もない事情があるように思う。
何かと不満を抱えている時の方が、文章を書きたくなるもので。
高校での生活は良くはなかったが、ブログを更新していた高校時代は悪くなかった。


そのブログも、高校を卒業して二年後に閉じてしまった。
閉鎖前にローカル環境に保存はしたものの、当時のやり方がまずかったのか、簡単に開ける形式ではない。手軽に記事を探したり、読み返すことはできない状態となっている。

ブログ最大の弊害は、この時期の日記が丸々抜けてしまっていることに尽きる。
中学時代にはWordで日記を書いていたが、高校時代はブログが日記代わりだった。
ブログを閉じた後はTwitterもあるし、日記をつける習慣を復活させている。

デジタルの日記をEvernoteに移して並べると、ブログ時代がすっぽり抜けてしまっている。
失われた五年の空白期。Evernoteには一切データがないし、幼少期のような印象に残る記憶もない。特に何も存在しなかった時期。


しかしブログのデータは残っているのだから、この一時期だけ抜けているのも面白くない。
苦労の末にデータをEvernoteに移す手順を固めて、気が向いた時に少しずつ移している。
当時の自分が精魂込めて残したのは1277記事。全て移すのは現実的なことではないが。

この移行作業を通して、ようやく当時のブログ記事に目を通す機会を得た。

特に何も印象に残らない空白の五年間……そんなわけがなかった。
過去の自分が残した文章は、稚拙で痛々しいけれど、生の感情を伝えてくる。
この五年間もちゃんと生きていたんだと、当たり前のことに気づく。

十代後半の多感な頃に、思いつく限りのことを書いて残している。
今になってみれば貴重だし、あれだけ手間と時間をかけた甲斐があったというもの。

単なる過去の振り返りには留まらない。
Evernote上で、十年前に書いた日記と、今日書いた日記が並んでいる。
その様子を見て、全部つながっているのだと感動してしまった。

人に歴史あり。今ここにいる自分は、急に降って湧いた存在ではない。
しょうもないことに笑って泣いて、その時その時を生きてきて。
地続きの最先端に今の自分が立っている。それは誰にも否定できない。

当時の自分は先のことなど考えず、当時を生きるためにブログを書いていただけ。
それが時を経て、今の自分を肯定してくれたように感じられた。
何のためにログを残すのか。また一つ答えを見つけたかもしれない。

先月末に最新作のセカダン2が発売された世界樹の迷宮シリーズ。
大好きなゲームだが色々と思うところもあり、この機に改めて振り返ってみる。

2007:世界樹の迷宮
2008:世界樹の迷宮2 諸王の聖杯
2010:世界樹の迷宮3 星海の来訪者
2012:世界樹の迷宮4 伝承の巨神
2013:新・世界樹の迷宮 ミレニアムの少女
2014:新・世界樹の迷宮2 ファフニールの騎士
2015:世界樹と不思議のダンジョン
2016:世界樹の迷宮5 長き神話の果て
2017:世界樹と不思議のダンジョン2

世界樹の迷宮シリーズは、新作が出る度に文句が言われてきた。
今でこそ傑作扱いされている3や4も、当時は散々な言われようだったもので。
それでも今にして思えば、3DS全盛期だった2012年頃が一番幸せだった。

シリーズが転機を迎えたのは、ストーリーモードを搭載した新世界樹1。新しい客層を狙ったのは分かるが、シリーズのコンセプトを否定しているとして、旧来のファンの反発を招いた。
2013年は当時アトラスの母体だったインデックスが倒産し、新世界樹1が遺作かと囁かれていた時期でもある。あの頃の空気は本当に重かった……。

それからセガに拾われてアトラスが復活したのは良かったが、賛否両論だった新世界樹シリーズを続けて出したのは火に油だった。クラシックモードに限定しても新世界樹2自体は良作だし、5と発売順が逆だったらと惜しく思う。
初のコラボ物のセカダンは当初盛り上がったものの、蓋を開けてみればお世辞にも良作と呼べるものではなく。コラボなのにお互いの良さを殺し合っているのが残念。

待望されていたナンバリング新作の5は、原点回帰を謳って薄味だったり、食材関連が練り込み不足だったりと、やや物足りない出来。期待値が上がり過ぎたのかもしれない。
これが初代なら文句はないが、シリーズ七作目でこれかという感想はある。UIや舞台や魔物を一新するなら、根本的なゲーム部分も変えてほしかった。


そうして足踏みしている間にSwitchが発売され、3DSの後継機がどうなるかは未だ不明。
二画面とタッチペン前提のゲーム設計なので、そのままSwitchには移行できない。
世界樹5発売後に「次の作品を作っていない」との発表も追い打ちだった。

実際はシリーズ十周年作品としてセカダン2が発売されたのだけど。
前作がちょっと厳しかったので、自分はまだ様子を見ているところ。

そんな中で、昨日ファミ通のインタビュー記事が公開された。
>もうひとつの集大成とも言えるような、“お祭り”的な作品をお届けしたい。
>そのような思いに至りまして、現在、新作の開発を進めているところです。
>これが、ニンテンドー3DSで下画面に地図を書く、最後のシリーズ作品になります。

「お祭り的な作品」とは、それこそセカダンのことだと思っていたが。
書き口とタイミングからしてナンバリング新作ではないだろうし、地図を書くならコラボや外伝とは違うはず。「もうひとつの集大成」から考えて新世界樹3と予想している。

何はともあれ、また3DSで地図を書く新作が出ることは喜ばしい。
それが最後になることも、ハードの世代交代を考えれば妥当。
むしろ明言してくれてすっきりした。

あとはSwitchで世界樹シリーズを続けてくれたら本望だが、このあたりはもうアトラスの判断になってしまうので、祈るしかないところ。
個人的にはマッピングを捨ててでもシリーズを続けてほしいし、初代からのマンネリを脱却するチャンスでもあると思っている。
シリーズの存続が無理なら、せめてキャラメイクできるRPGを出してくれたら嬉しい。

この半年ほど、朝はポタージュを飲むのが習慣になっていた。
土日に近くのスーパーで買い溜めして、一つずつ消費していく毎日。

冬はそれで良かったものの、夏はさすがに重たく感じてきた。
また特定の食品を食べ続けていると、さすがに品質表示も気になってくる。
しかし他に量と値段の合った洋風スープもなく困っていた。

そんなことを話していると、自分で作れば良いということになり。
晩に人参と玉ねぎを刻んでコンソメの素を入れただけのスープを作り、翌朝トーストのお供にしてみた。これがなかなか良い。
手間はかかるものの、味や具材は自分で調整できるし、市販のスープよりは健康的。
ただし手間はかかるので、完全に習慣にするのではなく、市販品と使い分けていくつもり。


高校時代の英語教師が「添加物が怖いなら一つの食べ物に偏るな」と話していた。
気にしてもきりがないが、色々な食べ物を選ぶことでリスクを分散できるという考え。

これはきっと食べ物以外にも当てはまる。
どんなものにも弱みや間違いは存在していて、完璧なものは存在しない。
何か一つに依存することは、それが持つデメリットを自分が抱え込んでしまうことに繋がる。

そして一つのものに依存しないためにも、効率化は程々にしておくべきか。
無駄なく最効率を求めると、パターン化・ルーチン化に陥ってしまう。

自分なりの最適解から、あえて外れる勇気を持つ。
一つ目の選択肢より劣る、二つ目や三つ目の選択肢も使ってみる。
必ずしも快適とは限らないが、その遊びに救われるかもしれない。