寒く感じるのも当然で、もう10月も終わり、いよいよ晩秋の季節となる。
今月は思い出したかのように夏日があったり、台風の影響で気温が下がったりした月。
特に三週目は雨続きで自転車を使えず、毎日のように靴を乾かす羽目になった。あんなに雨が続くのも珍しい。


今月は考え事をする記事が多かった。4日の記事はAmazonの低評価レビューやSNSに溢れる愚痴について、日頃から考えていたことの言語化。直接の動機はセカダン2か。
10日の記事は衝動的に書いたもの。当時は八方塞がりに感じていたが、今は新たな目標を立てたので持ち直した。落ち込みやすいが立ち直りも早いのは自分の長所。
12日の記事はこのブログについての自己言及。この場所が自分にとって何なのかとよく考えるが、二の丸という定義はしっくりきている。
17日の記事は自己否定的な人を見つめながら、では自分はどうかと振り返った記事だったか。
24日の記事はアズールレーンを遊んでいて思ったこと。更新頻度を気にして急ぎ書いたが、もう少し練って投稿すべきだった。

便りがないのは元気な証拠。ブログの更新も同じだと思う。
何かを書かずにはいられないほどに崩れる日は、そのうち訪れる。
だから書くことがない時にまで、無理に書こうとする必要はない。

最近、アズールレーンに熱中している。
というのも「ながらプレイによるレベリングやハクスラ」が自分の嗜好と合っていた。
思えばMHシリーズの炭鉱夫も、この類のゲームだった。地道なレベル上げが好きなタイプではないが、そこにハクスラ要素が加わると一気に楽しくなる。

単純作業を周回して抽選を繰り返し、その間も少しずつ戦利品が貯まっていく。
こういうゲームの需要は間違いなく存在する。

副産物は多ければ多い方が良い。
炭鉱夫の場合、お守り自体の幅が広いのと、鉱石が素材にもゼニーにもなるのがお得だった。お金はいくらあっても困らないゲームだったので、金策のために火山に出かけることも多かった。

アズレンの場合はキャラの経験値、好感度(新ボイス解禁に繋がる)、お目当ての品以外のドロップと、かなり恵まれている。
スマホゲーなので片手間に周回できるのも良い。同じスマホ上で競合するチェンクロとFEHには支障が出ているが、PCやゲーム機はフリーなので助かる。
ついでに言うとリアルマネーで簡単に解決するものではないのもポイントが高い。楽な抜け道が用意されていると、時間をかけて積み上げていく意義がなくなるので。

こうして冷静に見ると、炭鉱夫以来の理想的な周回ゲーを確保できたといえる。
それでいてキャラクターが可愛い。これは気に入るのも無理はない。

頭が疲れているときも回せる単純作業は、いくつか確保しておくべきだと思う。
がっつりと遊びたいほどではないが、寝てしまうのは惜しい。そんな時、ゲームに限らず「気軽にできる単純作業」があると、良い気晴らしになる。
もちろん、その単純作業に主導権を握られてしまうのはよろしくないが。

自分のことが好きか嫌いかと聞かれたら大好きと答える。
自己否定を口にする時もどこか酔っている節があるので、そういうところは直したい(と冷静に見ている自分も好きだから始末に負えない)。

真面目な話、私は自分の主観・価値観を通して世界に存在しているのだから、私が自分を肯定しないと何も始まらない。
人が常に自分の味方になってくれる保証はないし、人は誰も代わりになってくれない。

この自己肯定感がいつ頃から芽生えたのかが気になったので、記憶を思い起こしてみる。


記憶を辿れるのは幼稚園時代まで。
とても内向的な子供だったので、幼稚園に行きたくなくて毎朝泣いていた。別に先生が嫌いなわけではなかったはずだが、幼稚園に行かなければならないことがストレスだった。
単純に家から出たくなかっただけかもしれない。そんな園児の頃から引きこもり体質だったなんて。

そして幼稚園のかけっこではいつもドベ(最下位)だった。
この原因は今でもよく分かっていないが、人に譲る気持ちが強すぎたというか、自分が勝つという概念を持っていなかったように思う。
小学一年生の運動会では、親に言われたのだったか、思いっきり走ってみた。すると結果は6人中の3位で、何だこんなものかと拍子抜けした覚えがある。
細かく覚えている通り、この結果は自分にとっては破格の出来事で。やればできるんじゃないか、と大いに自信を付けることになった。走ることに苦手意識がないのは、この体験が大きいのかも。

自分の個性や強みが分かってきたのは、小学生の後半。
小学高学年の頃に、ピアノでちょっと良い結果を連続で出したことがあった。小さな小さなコンクールだったが、表彰台の一番高いところに立てた。
吹奏楽を始めたのもこの時期。クラスの男子とは違う強みを持っているのだ、と変な自信を付けていた。

今の性質が完成したのは中学時代で間違いない。
家族や近所やクラスとは全く別の、部活動という新しいカテゴリにおいて、初めて会う一つ二つ上の先輩たちに歓迎され受け入れられたのは、計り知れないほど大きな出来事だった。もちろん煩わしいことも多かったが、初めて「趣味を同じくする人間関係の楽しさ」を味わった。
勉強の方も絶好調だったので、十代特有の万能感も相まって、人生で最も自信に満ちていた時期。

その後はわりとろくでもない展開が続いて、自分の弱みを嫌というほど思い知った。
しかし中学時代に培った自己肯定感をベースに、騙しだまし進んで現在に至る。

もしあの時期がなかったら、今の自分はまた違う形をしていたかもしれない。
自分のことを好きにならなければ、記録を付けることも、こうして後から振り返ることもしなかったはずなので。

このブログの開設日はいつになるのだろう。

最古の記事は2006年まで遡ることになるが、今年で開設11周年だと書くのは抵抗がある。
11年前とはこのブログの扱い方がまったく違っている。当時と共通しているのは、アドレスとブログ名ぐらい(最初期はブログの名前も違っていた)。

今の形が確立したのは今年の5月あたりから。
現時点で記事を古い順に並び替えると、2016/10/12という日付が一番上にくる。
今や遠い昔のように感じるが、この時に2015年以前の記事は非公開とし、心機一転として再スタートを切った。

当時掲げた「twitterとは両輪で互いに補い合える形に持っていく」という目標は、補うというよりは使い分ける形に落ち着いたが、概ね達成できた。
このブログがなくなっても困るほどではないが、書きたい時に書ける場所があるのはありがたい。ほとんど機能停止していた時期を考えれば、良い状況にある。

ここが一つの区切りとなるのは間違いない。便宜上2016/10/12を二度目の開設日と決める。
数年後にまたしても心機一転する可能性はあるが、今現在の考えを基に、このブログは改築一周年を迎えた。そういうことにしておこう。


自分の本丸はどこにあるのか、と考えることが多い。
小学生までは「家」だった。家の周りには「近所」があり、その先に「学校」があった。
中学生になると学校が楽しくなり、細かく書けば「部室」「図書室」「教室」だった。
この頃から本格的に「日記」を書き始め、ここで初めて自分の手綱を握ったのだと思う。
自分が自分のために、目に見える形で残し始めた記録は、2006年に「ブログ」になり、2010年に「Twitter」になり、2016年からは「Evernote」中心に回っている。

趣味や仕事や交友は、自分を形作るものではあるが、自分の根幹となるものではない。
しかし誰に宛てるでもない表出(適した言葉が思いつかない)は、Evernoteに綴じている自分自身に最も近い。

思いつきが思いつきで終わることも多い中、このブログが一年続いたことは素直に嬉しい。
まずは一年。そして明日からは、次の一年が始まる。

人生のモチベーションが落ちている。
単に連休明けでナーバスになっているだけだと思いたいが、どうも落ち込み具合が大きい。

自分にもささやかながら、人生の小目標、中目標、大目標というものがあった。
小目標や中目標は、短い周期では暮らしの助けになるが、結局は気休めでしかない。
大目標という指針があるからこそ、腰を据えて日々を送ることができる。

青写真が破れかかっている今は、人生の意味を見失いかけている状態にある。
今日を、今週を、今月を、今年を無事に終えたところで、その先に何があるのか。
自分一人で完結しない目標を、人生の軸に置いたのが間違っていたのかもしれない。

一番悪いのは、自分の方向性が定まっていないことにある。
青写真を修復しなければならないのは確かだが、どう舵を取っても行き詰まる。
下手すれば破れてしまうだけのリスクを負って、目指す方向は正しいのか、本当に自分が望んでいるのかも分からない。
自分を押し殺すのが最も楽で手っ取り早いが、それでは何のためにという話になる。

今後を考えるだけで嫌気が差してくるが、時間にも限りがある。
とにかく自分の望み、方向性、妥協点を固める必要があるが、憂鬱でならない。
自分の望みが分からないまま歩むキャラクターも面白そうだ、と創作に逃げたくなる。

たとえば何かに触れて、絶賛したい気持ちになったとする。
同じ感想を持っている人を探し、皆が褒めちぎっているのを見て満足する。
しかし十人十色、中には否定的なコメントを書いている人もいる。
肯定的なコメントが大多数でも、印象に残るのは否定的な方で、微妙な不快感が残る。

ならば自分が全肯定してみようとすると、これが非常に難しいことに気づく。
完璧なものは存在しないから、難癖を付けようと思えばいくらでも付けられる。
けれど具体的に褒めようとすると、貶すよりも遥かに手間と時間がかかる。
否定の方が言語化しやすい、といえるのかもしれない。

つまり、否定的な物言いは発しやすく目に付きやすい。
世の中にネガティブな主張や感情が蔓延するのも当然、と暗い気持ちになる。


個人の考えは異なるので、他人を侵害しない限りは否定も自由だと思う。
ただし「否定は発しやすく目に付きやすい」という事実は覚えておいた方が良い。

少なくとも自分が好きなもの、応援したいものについては、補正をかけて肯定するぐらいがちょうど良いように思える。
細かいケチを付けたくなっても、わざわざ外に向けて発する必要はない。
自分ではちょっとした不満を書いたつもりでも、何も知らない第三者に強い負のイメージを与え、興味を失わせることになりかねない。
そもそも自分が言いたくなるようなことは、既に他の誰かが言っていることが多い。

最近は肯定的な物言いを心がけ、否定したくなった時は黙ることにしている。
意識して改めて思うが、人間が否定したがる性質を持っているのは間違いない。
これも人間の欠陥だと思うが、理性でしっかりと制御していきたい。