人生のモチベーションが落ちている。
単に連休明けでナーバスになっているだけだと思いたいが、どうも落ち込み具合が大きい。

自分にもささやかながら、人生の小目標、中目標、大目標というものがあった。
小目標や中目標は、短い周期では暮らしの助けになるが、結局は気休めでしかない。
大目標という指針があるからこそ、腰を据えて日々を送ることができる。

青写真が破れかかっている今は、人生の意味を見失いかけている状態にある。
今日を、今週を、今月を、今年を無事に終えたところで、その先に何があるのか。
自分一人で完結しない目標を、人生の軸に置いたのが間違っていたのかもしれない。

一番悪いのは、自分の方向性が定まっていないことにある。
青写真を修復しなければならないのは確かだが、どう舵を取っても行き詰まる。
下手すれば破れてしまうだけのリスクを負って、目指す方向は正しいのか、本当に自分が望んでいるのかも分からない。
自分を押し殺すのが最も楽で手っ取り早いが、それでは何のためにという話になる。

今後を考えるだけで嫌気が差してくるが、時間にも限りがある。
とにかく自分の望み、方向性、妥協点を固める必要があるが、憂鬱でならない。
自分の望みが分からないまま歩むキャラクターも面白そうだ、と創作に逃げたくなる。

たとえば何かに触れて、絶賛したい気持ちになったとする。
同じ感想を持っている人を探し、皆が褒めちぎっているのを見て満足する。
しかし十人十色、中には否定的なコメントを書いている人もいる。
肯定的なコメントが大多数でも、印象に残るのは否定的な方で、微妙な不快感が残る。

ならば自分が全肯定してみようとすると、これが非常に難しいことに気づく。
完璧なものは存在しないから、難癖を付けようと思えばいくらでも付けられる。
けれど具体的に褒めようとすると、貶すよりも遥かに手間と時間がかかる。
否定の方が言語化しやすい、といえるのかもしれない。

つまり、否定的な物言いは発しやすく目に付きやすい。
世の中にネガティブな主張や感情が蔓延するのも当然、と暗い気持ちになる。


個人の考えは異なるので、他人を侵害しない限りは否定も自由だと思う。
ただし「否定は発しやすく目に付きやすい」という事実は覚えておいた方が良い。

少なくとも自分が好きなもの、応援したいものについては、補正をかけて肯定するぐらいがちょうど良いように思える。
細かいケチを付けたくなっても、わざわざ外に向けて発する必要はない。
自分ではちょっとした不満を書いたつもりでも、何も知らない第三者に強い負のイメージを与え、興味を失わせることになりかねない。
そもそも自分が言いたくなるようなことは、既に他の誰かが言っていることが多い。

最近は肯定的な物言いを心がけ、否定したくなった時は黙ることにしている。
意識して改めて思うが、人間が否定したがる性質を持っているのは間違いない。
これも人間の欠陥だと思うが、理性でしっかりと制御していきたい。

嫌いなものの話をしても無益だが、たまには。

昔から同年代・同世代の人間が苦手だ。近くに同世代の人間が存在すると、危機感と警戒心が強まる。
よく同世代間はコミュニケーションが取りやすいという。たしかにジェネレーションギャップを考えれば、同年代の人間の方が共通の話題を持てるような気はするが、そもそも守備範囲が狭いので恩恵を感じたことがない。
実際は大目に見てくれる年上か、こちらが配慮するしかない年下の方が、相手をする上で気が楽だ。

最近、同世代を嫌う理由に思い当たった。
「比較対象になるから」である。

同世代の彼ないし彼女を通して、自分という人間が相対化され、弱みを感じる。
何をもって優劣を決めているのかは定かではないが、基本的に自分が苦手とする分野で比べ、打ちひしがれることが多いように思う。
自分が優れている点よりも劣っている点に注目してしまうのは何故なのか。

自分は幸せ者だと自負しているが、それは確信するほどではない。
比較対象がいると、その自己暗示にヒビが入りやすい。
自己肯定感だけでストレスを防いでいる身にとっては、天敵に等しい。


完全に比較対象を失うと、独自路線を走って戻れなくなるかもしれない。
何事も中庸が大切。適度に立ち位置を見直すことは必要ではある……。

が、それはそれとして同世代は嫌いだ。
理屈が分かったところで、改善されるわけでもするつもりもないのだから、やはりこの話は無益だった。

最近また小説を書きたい気分で、マイキャラの話をぼちぼち書いている。
自分が作ったキャラクターなので、自分が書かなければ供給がない。

設定やシナリオや一場面を考えるのは好きなので、ネタ帳(WorkFlowy)には大量の蓄えがある。
しかしこれを小説という形に仕上げるのが苦手で、とんでもなく時間がかかる。


時間があれば書けるかというと、自分には当てはまらない。
ありあまる時間があっても書けない(書かない)ことは分かっている。

文章を書く行為は単純作業ではなく、頭を使わなければならない。
脈絡のない日記や記録よりも、生産エネルギーを大量に使う。
特に最近はこれが顕著で、何とか書き上げた後には疲れ果ててしまい、しばらく創作に触れたくないと思うこともある。
あくまでも趣味なのだから、満足感よりも徒労感が上回っているのは具合が悪い。

小説を書くのは、とてもコスパの悪い趣味。
時間と労力を大量消費して、一つの形を作る行為。

しかし同じ結果なら過程はできるだけ楽にしたいのが本音。
他の趣味を削って時間と労力を捻出しても、根本的な解決にはならない。
どうにかしてコストを落としたいが、創作とはそういうものだと言えばそれまでで。

高校時代にブログを書いていた。
内容は日常の出来事、自分なりの考え、趣味の話、愚痴、詩、エトセトラ。
受験期までは毎日更新していた覚えがあるし、一日に数回更新する日もあった。

よくそれだけの手間をかけたし、それだけの時間があったものだと感心する。
当時、ブログ更新を苦しく思った記憶は、あまりない。これは「高校生活がそんなに楽しくなかったから」という身も蓋もない事情があるように思う。
何かと不満を抱えている時の方が、文章を書きたくなるもので。
高校での生活は良くはなかったが、ブログを更新していた高校時代は悪くなかった。


そのブログも、高校を卒業して二年後に閉じてしまった。
閉鎖前にローカル環境に保存はしたものの、当時のやり方がまずかったのか、簡単に開ける形式ではない。手軽に記事を探したり、読み返すことはできない状態となっている。

ブログ最大の弊害は、この時期の日記が丸々抜けてしまっていることに尽きる。
中学時代にはWordで日記を書いていたが、高校時代はブログが日記代わりだった。
ブログを閉じた後はTwitterもあるし、日記をつける習慣を復活させている。

デジタルの日記をEvernoteに移して並べると、ブログ時代がすっぽり抜けてしまっている。
失われた五年の空白期。Evernoteには一切データがないし、幼少期のような印象に残る記憶もない。特に何も存在しなかった時期。


しかしブログのデータは残っているのだから、この一時期だけ抜けているのも面白くない。
苦労の末にデータをEvernoteに移す手順を固めて、気が向いた時に少しずつ移している。
当時の自分が精魂込めて残したのは1277記事。全て移すのは現実的なことではないが。

この移行作業を通して、ようやく当時のブログ記事に目を通す機会を得た。

特に何も印象に残らない空白の五年間……そんなわけがなかった。
過去の自分が残した文章は、稚拙で痛々しいけれど、生の感情を伝えてくる。
この五年間もちゃんと生きていたんだと、当たり前のことに気づく。

十代後半の多感な頃に、思いつく限りのことを書いて残している。
今になってみれば貴重だし、あれだけ手間と時間をかけた甲斐があったというもの。

単なる過去の振り返りには留まらない。
Evernote上で、十年前に書いた日記と、今日書いた日記が並んでいる。
その様子を見て、全部つながっているのだと感動してしまった。

人に歴史あり。今ここにいる自分は、急に降って湧いた存在ではない。
しょうもないことに笑って泣いて、その時その時を生きてきて。
地続きの最先端に今の自分が立っている。それは誰にも否定できない。

当時の自分は先のことなど考えず、当時を生きるためにブログを書いていただけ。
それが時を経て、今の自分を肯定してくれたように感じられた。
何のためにログを残すのか。また一つ答えを見つけたかもしれない。