ちょっとした記憶の欠落をログで回復したので、その過程と反省について。



いよいよ今週末にSplatoon2が発売される。
前作はパッケージ版を買って、ディスクの入れ替えにストレスを感じることがあったので、今作はダウンロード版にするつもり。
DL版なら品切れになることがないので、発売直前にでもAmazonで買えば良い。

そう考えていたが、そもそも「既に注文した」ような記憶もある。
二重購入は困るからとAmazonの履歴を確認すると、イカの姿が見当たらない。
購入履歴が嘘をつくことはないから、自分の記憶が間違っている……?

こんな時は自分よりも自分の過去に詳しい、Evernoteの出番。

とりあえずクレジットカードの履歴を確認する。
5月に任天堂に6,458円を支払っており、これはSplatoon2の定価額と同じ。
そういえば「My Nintendo Storeにクレカを登録した」記憶がある。

しかし、わざわざ公式のストアで買ったのが解せない。
日頃の習慣や値段を考えても、Amazonで注文する方が話は早い。
何か追加特典があるのかとストアの商品一覧を見たが、特にそういったものもなさそう。

たった二ヶ月前に起こした行動を読み解けないのも情けない話だが、思い出せないものは仕方がない。納得のいかないところもあるが、既に購入していた事実の確認は取れたので、それで良しとした。


その数日後、任天堂から発送メールが届いた。
Splatoon2(ゲームカードフリー版)という表記が引っかかり、改めて記録を辿ることに。
メールに書かれた注文日(2017/05/18)の日記を読み返すと、ニンテンドーダイレクトの放送日だったらしく、放送を見た後にストアで注文したと書いてある。

「ダイレクト」と「カードフリー版」というキーワードが揃い、ようやく記憶が戻った。

カードフリー版とは、パッケージの中にDLコードが入った代物。遊ぶ分にはDL版にしたいが、物としてパッケージも欲しい需要に応えている。
ダイレクトの日に存在が明かされた、公式ストア限定商品だった。

カードフリー版を注文したことを、二ヶ月ですっかり忘れてしまったのは納得できる。
発表された直後に購入したから、せいぜい一時間程度で話が済んでしまった。
後から記憶や記録で補強されることもなく、日に日に印象が薄れていったと。


即断即決は、時間をかけて考える過程を踏んでいないので、記憶に残りにくい。
また一瞬のことなので、意識していないとログにも残らないことが多い。

今回はまだ日が浅かったので、複数のログからの推測と記憶で何とか解決した。
これがもっと昔に遡ると話は別で、そのものずばりのログが必要になってくる。
意思決定が早い時ほど、動機と結果をきちんと書き残すようにした方が良い。

先日、Evernoteのノート数が4000を突破した。
この親愛すべき第二の脳には、自分が残した全ての記録が保管されている。

……とは限らない。

先日、2014年頃に書いたテキストを探していたが、ノート検索をかけても見つからず。
あちこち探しまわり、Evernote以前に使っていたnami2000の中に見つけた。
他にもEvernoteに移していないデータがいくつか見えて、懐かしく嬉しい反面、これらのデータが完全に意識からこぼれ落ちていたことが恐ろしかった。

Evernoteは随分と昔から使っているように思えるが、本格的に運用を始めたのは2015年末からで、実はまだまだ日が浅い。
当然それ以前に書いた文章や記録は、後から遡って保管するしかない。

たとえばライフログなら、この一年半の間にTwitter(2010年~)、FC2ブログ(2006~)、日記(2006~)を移した。
これでも完全に集約できてはいないが、第二の脳として信頼できる段階にはあった。

Evernoteに検索をかければ、ワンアクションで記録が見つかる素晴らしさ。

ところが先に書いた通り、把握していない取りこぼしが見つかった。
それも大昔のデータではなく、比較的新しいものだった。
今回は第一の脳が記憶していたから掘り起こせたが、もし記憶からも抜け落ちていたら、このデータは意識の外に放逐されていたかもしれない。

Evernoteに記録を集約している自信が、Evernote外の記録への意識を薄れさせている。

対処法は二つ。記録の集約を推し進めるか、意識を分散させるか。
だが記録が複数の場所に分けて保存してある状況は、すっきりしない。
nami2000のテキストには改めて目を通し、Evernoteに取り込む予定でいる。

ここ最近、毎晩欠かさず、夢にめぐみんが出てくる。
確固としたイメージで出てくることもあれば、名前や気配だけのこともあり、また起床時に後付けで解釈している可能性も捨てきれないが。
これほど同じテーマが続くのは初めてのことで、ちょっと驚いている。

昔から寝つきが悪く、夢見も悪い。
よくご馳走を前にして目が覚めてがっかりするという話があるが、そんな経験は少ない。
むしろ今のは夢だったのかと安堵し、朝から現実の優しさを噛み締めてばかり。

よく見る悪夢のパターンに「伴奏を任された合唱コンクール前日にまったく譜読みができていない」というものがある。実際に弾くところまでは話が進まない。
この後の惨事と他者からの糾弾を回避できない、というのがポイント。
最後に伴奏をしたのは高校生の時だが、卒業後もこの夢には随分と悩まされ、縁が切れたのはここ数年。自分で思っていた以上にプレッシャーだったらしい。

どうせ見るなら楽しい夢の方が良い。

起きている時の思考や行動が、少なからず夢に影響するのは間違いない。
鮮烈な出来事があった日の夜は、大抵その夢を見ることも体感としてある。
最近の夢については、それだけ興味関心が集中しているから(特に寝る直前まで本に没頭しているから?)と思われるが、上手くこの状態を維持していきたいところ。

悪夢を見ないだけでも嬉しいが、どうせなら思い通りに操作できたらとも思う。
楽しい夢を見た時は夢日記をつけているが、残念ながら明晰夢を見たことはない。
人生の必要経費である睡眠をエンタメに変換できたら、これ以上の充実はないのだが。

kindle端末が話題に上り、興味はあるが自分は本を読まないからなあ、と思った。


本を読まない人間である。

子供の頃は暇さえあれば本を読んでいた。
自他共に認める読書家だった、と言い切っても良い。
今思うと恐ろしいが、文庫本を読みながら下校することも多かった。
もちろん親や先生に注意されたが、素直に従った記憶はない。

時は00年代。中学校の図書室は、何故かライトノベルが揃っていた。
漫画が駄目でラノベが許される基準は当時から不思議だったが、あるものはありがたく読ませてもらった。
朝読時間後も本を引き出しに戻さなかったし、授業間の休みに本に没頭しすぎて移動教室に遅れかけることも何度かあった。

雲行きが怪しくなるのは高校から。
まず図書室のアクセスや本の揃いが悪く、あまり通わなかった。
休み時間に読書していたら、勉強しろと苦言を呈されたこともあった。
携帯電話の存在や、受験シーズンという時期も、向かい風だった。

受験から解放され、大学ではまた色々な本を読むつもりだったのだが、ここで急に読書の習慣が消え失せてしまった。
学部の関係もあり、最近読んだ本の話題になることも多かったが、その度に答えに窮するほどだった。
昔読んだ本ならいくらでも答えられるのにと歯がゆい思いをしたが、それでも読書の習慣は戻らなかった。

大学を出てからも変わらず、現在に至っている。
もちろんピンポイントで気になった本を読むことはあったが、年間に直すと0~1冊という有様である。


今思えば、僕は読書家ではなく、単なる娯楽好きでしかなかったのだと思う。
読書は学校で許された唯一の娯楽だった。
読書よりも優先できる娯楽が存在すれば、そちらに流れるのは当然だった。

ここ数日は久しぶりにラノベを読んでいるが、本を読むと他のことをする時間がなくなる。
数多くの娯楽が時間を奪い合う中で、読書にどこまで割けるかを考えると、やはり自分が読書家になる未来は見えない。
ただ、せっかく過去に持っていた趣味なので、尊重してあげたい気持ちもある。

もしもkindle端末を買ったなら、それが一つの分岐点になるかもしれない。
なんて、淡い期待のようなものを抱いている。

本棚に目隠しのためカーテンを付けた。
雑然とした本やゲームソフトやCDがまとめて隠れただけで、不思議なほどに気分が落ち着くし、心なしか部屋も広くなった気がする。
埃や日光対策のつもりだったが、思わぬ副産物を得た。


ここ最近の雨と夏日で、ちょっと参っている。
食欲が落ちるのは毎年恒例のことなので仕方がない。
ただ、普段は気にも留めないニュースやSNSに気が立って仕方がない。

この数日でいきなり世間が変化したのではない限り、原因は受け手の自分にある。
自分の身は可愛いので、余計なものが目に入らないようにシャットアウトを試みている。

しかし知覚の外に追いやろうとするほどに、より知覚してしまうのが困りどころ。
情報過多な上、手軽にアクセスできる弊害と言うべきか。
カーテンで目隠しするには、範囲が広く、現実的ではない。

それよりも視線を落として、静かに休息するのが吉か。
自分の価値観に則って、自分の体に良いものを集めて。
比べるでもなく、評するでもなく、語り合うでもなく。
意識を内に内にと向けて、じっと梅雨明けを待つ。